~鎌倉に幕府が置かれた地理的要因について~

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はじめに

 今回の記事では、なぜ鎌倉が幕府の中心地になったのかという点について、地理的な視点から掘り下げていく。特に、若宮大路など鎌倉の中心となった道路や、外港である六浦を中心とした鎌倉周辺の地域事情などから、鎌倉が幕府の中心地となるに至った経緯を調べていく。

鎌倉時代以前の鎌倉の状況

まずは、幕府が置かれる以前の鎌倉の状況について調べていく。まず、鎌倉時代以前の鎌倉について、『吾妻鏡』治承4年12月12日条によれば、「所はもとより辺鄙にして、海人野叟のほかは、卜居の類これ少なうす。」と述べられている[1]。このことから、鎌倉はあまり栄えていなかったことが読み取れる。しかし、馬淵和雄は、『中世都市鎌倉の実像と境界』において、奈良時代から平安時代前期にかけての8~9世紀には、旧東海道や後に六浦道と呼ばれる道路を中心に集落が存在していたことを指摘している[2]。このことから、鎌倉は源頼朝により幕府の中心となる以前から、交通の要衝としての役割を持っていたことがわかる。また、山村亜希は、『中世都市の空間構造』において、今小路西遺跡の発掘調査により古代に集落が存在していたことを指摘している[3]。『吾妻鏡』には、鎌倉が栄えていなかったことを示唆する記述があるが、後世の発掘調査などにより、実際に鎌倉時代以前の鎌倉は交通の要衝として集落や道路が存在していたのである。

若宮大路の整備

しかし、鎌倉のメインストリートである若宮大路は、前述した鎌倉時代以前には存在していなかった。若宮大路が整備されたのは、『吾妻鏡』養和2年3月15日条の「鶴岳の社頭より由比の浦に至るまで曲横を直して詣往の道を造る。これ日頃御素願たりといへども自然に日を渉る。しかるに御台所御懐孕の御祈によって故にこの儀を始めらるるなり。」という記述から、1182年頃ということがわかる[4]。またこの記述は、元々曲がっていた道路を直して整備したということを示しており、若宮大路の原型となる道路が元々存在していたということになる。さらに、源頼朝が妻である北条政子の懐妊をきっかけに若宮大路の整備を行ったことが述べられている。この部分だけを読むと、頼朝が若宮大路を整備したのは政子の懐妊だけがきっかけであるように捉えられる。しかし同時に、前述した『吾妻鏡』養和2年3月15日条には、頼朝が以前から若宮大路を整備することを望んでいたことも述べられている。この記述から、頼朝は元々若宮大路の整備を望んでおり、整備を始めたきかっけが、たまたま政子の懐妊だったということがわかる。頼朝は、遅かれ早かれ若宮大路の整備に踏み切っていたのである。

しかし、松尾剛次は、『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』において、発掘調査の結果、若宮大路が他の小路と真っ直ぐ交わるようになったのは、13世紀前半からであることを指摘している[5]。そのため、『吾妻鏡』の若宮大路が1182年頃に整備されたという記述には、疑いが生じる。鎌倉時代の初期段階では、鎌倉のメインストリートは若宮大路ではなかったのである。では、若宮大路が鎌倉のメインストリートとなったのはいつ頃であり、それ以前の時代に鎌倉の中心として機能していた道路は何だったのだろうか。

若宮大路以前の鎌倉の中心基軸

山村亜希は、『中世都市の空間構造』において、鎌倉時代以前に鎌倉の中心となった道路は、鎌倉の北側に位置する六浦道と、その南側に位置する稲村ヶ崎から逗子にかけての道路であることを述べている[6]。2つの道路は東西に伸びており、これらの道路を繋ぐ南北に伸びた道路が別に存在していたこともわかっている[7]。南北に伸びた道路は、小町大路と今大路と呼ばれる道路である[8]。六浦道については、特に重要な道路であった。西岡芳文は、『中世都市鎌倉の実像と境界』において、六浦が鎌倉の外港的役割を果たしており、北条実時によって金沢文庫や称名寺などが建てられたことを述べている[9]。また、1219年(承久元年)まで存在していた大倉御所は六浦道に沿って建てられていた[10]。松尾剛次は、『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』において、和賀江島が1232年(貞永元年)に建設されるまで鎌倉には六浦以外の良港がなかったことを指摘している[11]。ここから、初期の鎌倉は若宮大路を中心とした都市構造ではなく、六浦と鎌倉の繋がりを重要視した六浦道を中心として、都市が建設されていったことがわかる。つまり鎌倉時代初期に鎌倉の中心となった道路は、鎌倉時代に新設された若宮大路ではなく、鎌倉時代以前から存在していた東西基軸の六浦道だったということがわかる。

若宮大路が鎌倉の中心になった要因

若宮大路は、当初鶴岡八幡宮の参道として整備された。『吾妻鏡』養和元年7月8日条によれば、「浅草の大工参上するの間若宮の営作を始めらる。」と述べられている[12]。このことから、鶴岡八幡宮が1181年に造営され始めたことがわかる。そして若宮大路は、『吾妻鏡』によれば1182年頃[13]、後世の発掘調査によれば13世紀前半に整備された[14]。若宮大路が鎌倉の基軸となったきっかけは、大倉から宇津宮辻子への幕府の移転と、1232年(貞永元年)の和賀江島の建設による港の確保である[15]。元々、大倉幕府は六浦道に沿った鶴岡八幡宮の東側に位置していた[16]。しかし、宇津宮辻子幕府は若宮大路に沿って建てられた[17]。また、和賀江島が建設されたことにより、鎌倉の港は六浦だけではなくなった。このような出来事を経て、鎌倉のメインストリートは六浦道から若宮大路へと移っていったのである。

若宮大路が鎌倉の中心になってからの六浦道

 若宮大路が鎌倉のメインストリートになってからも六浦道の役割が衰えることがなかった。馬淵和雄は、『中世都市鎌倉の実像と境界』において、1305年(嘉元3年)頃の瀬戸橋の建設について言及している[18]。鎌倉時代の六浦は入江の多い入り組んだ地形になっている[19]。この点が、六浦が良港である要因である。しかし、入江の多い地形が故に海によって隔てられた場所あった。イメージとしては、現在の神奈川県から千葉県に陸伝いで行くためには、東京湾に沿って遠回りしなければならないような状況と同じである。当時の六浦にも、このような状況が存在しており、この問題を解決するのが瀬戸橋の建設であった[20]。この橋の建設により、以前は釜利谷を回って金沢まで行かなければならなかった状況が一変した[21]。鎌倉から六浦、そして金沢までのルートがより直線的になったのである[22]。いわゆる東京湾アクアラインによって神奈川-千葉間の移動時間が短縮されたような状況と同じである。また、六浦道の北西方面の山内にも、建長寺や円覚寺など現在も残る寺が建立されている[23]。このように、六浦道は若宮大路が鎌倉の中心になってからも、主要道路としての役割は衰えず、むしろ発展を遂げている。さらに、寺の建立などの文化的側面での発展も見受けられる。

おわりに

 今回の記事では、地理的な視点から鎌倉が幕府の中心地となった要因について調べてきた。元々鎌倉は、外港である六浦との繋がりを重視した東西基軸の構造になっており、旧東海道の一部であった。13世紀になると、鎌倉の中心は若宮大路を中心とした南北基軸の構造になり、和賀江島と六浦という2つの港を持つようになった。また、六浦道についても鎌倉の主要道路としての役割を持ち続けた。鎌倉時代の鎌倉は、若宮大路と六浦道という2つの道路を中心としながら発展していったことがわかった。このことから、鎌倉は交通の要衝としての有用性から幕府が置かれ、鎌倉時代を通してその有用性がさらに発展していったと結論づけられる。


[1] 『吾妻鏡』治承4年12月12日条

[2] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)馬淵和雄Ⅰ中世都市鎌倉前史91、92頁。

[3] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)130頁。

[4] 『吾妻鏡』養和2年3月15日条

[5] 松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』(中央公論社、1997年)24頁。

[6] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)140頁。

[7] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)142頁。

[8] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)142頁。

[9] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)西岡芳文Ⅲ港湾都市六浦と鎌倉134、136、138頁。

[10] 松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』(中央公論社、1997年)10頁。

[11] 松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』(中央公論社、1997年)10頁。

[12] 『吾妻鏡』養和元年7月8日条

[13] 『吾妻鏡』養和2年3月15日条

[14] 松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』(中央公論社、1997年)24頁。

[15] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)146、148頁。

[16] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)144、145頁。

[17] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)147頁。

[18] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)西岡芳文Ⅲ港湾都市六浦と鎌倉138頁。

[19] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)西岡芳文Ⅲ港湾都市六浦と鎌倉137頁。

[20] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)西岡芳文Ⅲ港湾都市六浦と鎌倉138頁。

[21] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)西岡芳文Ⅲ港湾都市六浦と鎌倉138頁。

[22] 五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)西岡芳文Ⅲ港湾都市六浦と鎌倉138頁。

[23] 山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)150頁。

参考文献一覧

『吾妻鏡』

五味文彦、馬淵和雄『中世都市鎌倉の実像と境界』(高志書院、2004年)

松尾剛次『中世都市鎌倉を歩く-源頼朝から上杉謙信まで』(中央公論社、1997年)

山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)

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