ビスマルク~19世紀欧州外交の立役者~

歴史

皆さんはビスマルクという人物を知っていますか?

ビスマルクは、19世紀のドイツ出身で、歴史上でも外交手腕に優れている人物の一人です。

ビスマルクはその外交手腕を駆使して、ドイツをヨーロッパでも指折りの列強国家の地位に押し上げました。

今回は、ビスマルクの外交政策にフォーカスしていきたいと思います!

ビスマルクのプロフィール・経歴

オットー・フォン・ビスマルク

誕生:1815年4月1日 プロイセン王国ブランデンブルク県シェーンハウゼン

死去:1898年7月30日 ドイツ帝国アウミューレ市フリードリヒスルー

ユンカー(東部プロイセンにおける地主貴族)の出身。

プロイセン王国時代は、貴族院議員や駐ロシア・フランス大使などを務める。

ドイツ帝国では、初代ドイツ帝国宰相を務め、ビスマルク体制と呼ばれる外交体制を築き上げる。

国内では、社会保障政策などに力を入れる。

ヴィルヘルム2世即位後の1890年に引退。

ビスマルクの天才的な外交手腕

ビスマルクを語る上で欠かせないのが、その天才的な外交手腕です。

ドイツ帝国成立前(19世紀前半)のドイツ地域には、プロイセン、オーストリアなどの国家に加えて、多くの中・小規模国家が存在していました。

さらに、東にはロシア、西にはフランスという、東西に強力な国家が存在していました。

当時のドイツには、ドイツ統一フランス・ロシアの脅威をいなすという2つのミッションを達成する必要があったのです。

19世紀前半のドイツは、ドイツ統一フランス・ロシアの脅威をいなす必要があった!

幸いなことに、19世紀前半のヨーロッパは、ウィーン体制の影響が残っている+国内問題を抱えている国が多かったため、ドイツが東西から軍事侵攻を受けることはありませんでした。

そのため、ドイツでは、まず統一事業を成し遂げることを目指していくのです。

ビスマルクとドイツ統一までの道のり

ドイツ統一といっても、もちろん簡単なことではなく、いくつかの問題を抱えていました。

まず、第一の問題として挙げられるのが、

どの国家をがドイツ統一の主導権を握るのかという点です。

当時のドイツ地域には、プロイセンオーストリアという2大国家が存在していました。

プロイセンとオーストリア、どちらの国家がドイツ統一の主導権を握るのか。

この問題が、ドイツ統一を妨げる最大の要因となっていました。

しかし、ここで登場したのが、当時プロイセン首相を務めていたビスマルクでした。

当時のドイツ地域では、ドイツ統一の形として2つの考え方がありました。

それが、大ドイツ主義と小ドイツ主義です。

  • 大ドイツ主義
    オーストリアのドイツ地域を含めてドイツ統一を目指す
  • 小ドイツ主義
    オーストリアをドイツから切り離し、ドイツ統一を目指す

プロイセンとオーストリアが対立している以上、大ドイツ主義は非現実的であったため、

ビスマルクは、小ドイツ主義でドイツ統一を目指していきます。

そのため、まずはドイツ統一の中心国家がプロイセンであることをはっきりさせる必要がありました。

ビスマルクは、まず最初にデンマークに戦争を仕掛けます。(デンマーク戦争 1864年

ここで、大事なのがプロイセン単独ではなく、プロイセンとオーストリアが連合で戦った点です。

結果的に、デンマーク戦争は、プロイセン・オーストリア連合国の勝利となり、デンマークからシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方を割譲します。

でもなんでデンマークに戦争を仕掛けたの?意味ないじゃん!と思った方、、、

ここがビスマルクの外交手腕の高さを示す部分なのです。

ビスマルクの真の狙いはデンマークではなく、オーストリアと戦争をするきっかけづくりでした。

プロイセンとオーストリアは、デンマークから割譲した領土をめぐって対立プロイセン=オーストリア戦争へと発展していきます。

しかし、このシナリオはすべてビスマルクが思い描いたものだったのです!!

こうなると、ビスマルク擁するプロイセンの思惑通りに事が運んでいきます。

1866年、プロイセン=オーストリア戦争が勃発します。

プロイセン軍は、オーストリア軍と比べ優れた武器を装備していました。

さらに、プロイセン軍の名将モルトケの活躍により、プロイセン軍はわずか7週間でオーストリア軍に勝利します。

この戦争によって、ドイツ統一の中心国家がプロイセンになることは決定的となったのです。

また、ビスマルクはオーストリアから領土や賠償金の獲得を行いませんでした。

あくまで、プロイセン=オーストリア戦争の目的は、オーストリアをドイツ統一から切り離すことでした。

この戦争の勝利によって、1867年にプロイセンが中心となる北ドイツ連邦が成立します。

・プロイセンがドイツ統一の中心国家となる

・オーストリアをドイツ統一から切り離す

この2点を達成したことにより、プロイセンを中心としたドイツ統一が大幅に近づきます。

最後の問題として残ったのが、南部ドイツ地域をいかに北ドイツ連邦に組み込むかという点でした。

プロイセンなどの北ドイツ連邦はプロテスタント信仰が主流でしたが、南部ドイツではカトリック信仰が主流でした。

このような宗教上の問題もあり、北ドイツ連邦に南部ドイツ地域を組み込むことは簡単ではありませんでした。

ビスマルクは、こうした問題に対してドイツ人意識を高めることにより南部ドイツの北ドイツ連邦参加を促します。

具体的にドイツ人意識を高めるとはどういうことなのか?

それは、フランスとの戦争によってドイツ人の愛国心をあおることでした。

1870年にエムス電報事件が起こります。

この事件は、プロイセン国王ヴィルヘルム1世が送ったフランス大使に関する電報がきっかけでした。

ビスマルクは、この電報の内容を、プロイセンとフランス双方の敵対心をあおるような内容に改ざんして、公表します。

この事件により、プロイセンとフランスは対立を深め、1870年プロイセン=フランス戦争が勃発します。

この戦争では、バイエルン王国などの南部ドイツ諸国もプロイセンと同盟を結び、フランスと戦いました。

結果的にプロイセン=フランス戦争は1ヶ月半で決着がつき、プロイセンが勝利します。

そして、この戦争により、南部ドイツ地域が北ドイツ連邦に加盟、悲願のドイツ統一が成し遂げられることとなったのです。

1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」において、プロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ統一を宣言。

ここにドイツ帝国が成立しました。

ドイツ帝国の地図。赤色範囲はプロイセン王国。

引用元:wikipedia ドイツ帝国より

ドイツ帝国成立後のビスマルク

ドイツ帝国が成立すると、プロイセン国王のヴィルヘルム1世が初代ドイツ帝国皇帝になりました。

そして、ビスマルクは初代ドイツ帝国宰相となり、ドイツ帝国の発展に努めていきます。

ドイツ帝国の最大の外交問題は、東西をフランス・ロシアという大国に挟まれていることでした。

ビスマルクは、フランスを徹底的に孤立させることでこの問題に対処していきます。

1873年には、ロシア・オーストリアと三帝同盟を締結します。

しかし、オーストリアとロシアは、バルカン半島問題で対立していました。

特に、ロシアは南下政策による地中海進出を目指したのです。

ロシアは、1877年のロシア=トルコ戦争により、一時的に地中海進出を成し遂げます。

この出来事は、ヨーロッパ列強諸国に危機感を与える出来事となりました。

ビスマルクは、1878年にドイツ主催でベルリン会議を開催。

外交により、ロシアの地中海進出を阻止します。

また、ベルリン会議は、ビスマルク率いるドイツがヨーロッパ外交の主導権を握っていることが明らかになった出来事でもありました。

しかし、ベルリン会議によって、三帝同盟は解散になってしまいました。

その後、1881年に三帝同盟が復活することはありましたが、、、

結局オーストリアとロシアの対立により、再び解散することとなりました。

ビスマルクは、1882年にオーストリア・イタリアと三国同盟を結ぶなど、フランスを孤立させる外交を続けいきます。

また、ロシアとの関係を保つことが必須だと考えてたビスマルクは、、、

三帝同盟解散後の1887年に、ロシアと再保障条約を結びます。

この条約は、双方の国がいかなる時でも、お互いを侵略しないことを約束した条約でした。

このように、ドイツ帝国成立後のビスマルクは、フランスを孤立させることを重視した外交政策を展開していきました。

しかし、1888年にヴィルヘルム2世が即位すると、ビスマルクとヴィルヘルム2世は意見の対立を深めていきます。

結果的に、ビスマルクは1890年に政界を引退、ビスマルク時代が終焉を迎えることとなりました。

まとめ

いかかがだったでしょうか?

ビスマルクは、ドイツという地理的、政治的に不利な状況にある国家を統一し、ヨーロッパ随一の強国に発展させました。

特に、その外交手腕は天才的なものであり、19世紀後半のヨーロッパ外交を支配しました。

ビスマルクの外交は、単にドイツの利益を考えるだけでなく、ヨーロッパ全体のバランスを重視しておいました。

その、大局観、バランス感覚が、外交を中心に勢力を拡大していくビスマルクの凄さであると思います。

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